Interview

里谷多英(フリースタイルスキー・モーグル) 「会社員になって、戸惑いの連続。だけど、とても楽しい」

目の前に現れたのは、手足がすらりと細長く、抜群のプロモーションを持つ女性。気負いないシンプルなファッションが、そのスタイルの良さを引き立てる。スピードで一気に攻める男前な滑りを見ていた側からみると、拍子抜けするくらい華奢で女性らしいルックス。まるで青山や銀座でショッピングや食事を楽しんでいるような、女性であることを謳歌している年代らしいいでたちだ。この姿が、フリースタイルスキー・モーグルの現役生活を終え、会社員生活をスタートして間もない里谷多英の今である。

「なんか不思議な感じですよね、今。ずっと4年に1度のオリンピックのことだけを考えて生活を組み立てていたので、急にそういう目的、目標がなくなって。ずっとオリンピックが焦点だったんです、13歳くらいから。いつもオリンピックのために4年間を過ごしていた。オリンピックだけを意識していたから4年が経つのがすごく早くて。でも今は、たとえばTVの占いを見てもオリンピックには結びつけない。むしろ仕事のこととか上司のこととか考えている。ものすごい変化、ですよね。そう、今は……オリンピックが中心じゃない。中心、だったんですね、オリンピックが……今までは」

今、起こっている日々のことにまだ実感が湧いていないのか、改めてゆっくり考える余裕がなかったのか、それとも急激な変化に戸惑っているのか。ひとつひとつ言葉を噛みしめるように「オリンピック」を繰り返す。

「いやでも、本当に新鮮ですよ、今は今で。お財布持ってランチに行ったり、社内の人とゴルフに行ったり、部署の飲み会自体すごい新鮮(笑)。今までそういうことをやってこなかったので、そういうのは面白いなって。でも、大変なことのほうが多いですけど実際は(笑)。今までは基本的にずっと同じことをやってきたのに、今はまったく初めてのことばかりをやらないといけない。一から覚えていくことがたくさんあるのは刺激的過ぎて大変だなって。わからないことだらけなんで失敗ばっかりだし。22歳の新入社員くらいの失敗をしまくって、本当にごめんなさいって感じです(笑)。でも、今までとはまったく違うことに挑戦できる環境があることは、嬉しいし楽しい。辛いんですけど、ホント辛いんですけど、ちゃんと楽しい」

まだ3か月足らずの会社員生活では、25年間を費やしたスキー人生のように深く理解できていないだろうし、一般的な20歳前後の新入社員とは違った立場での新生活に戸惑いと苦労があるのだろう。「楽しい」と「辛い」を繰り返し交互に口にするが、おそらくどちらも彼女の本音なのだろう。

「今思うと、選手のときは本当に子どもでわがままだったって反省しますね(笑)。若さもあって自分のやりたいようにやって、言いたいことを言ってきましたけど、許してくれたまわりの人たちはスゴイなって(笑)。だって会社で働くと思い通りにならないことがほとんどなんですよ。たとえば昨日、思い通りになったことは、思った時間より少し早く仕事が終わっておいしいワインが飲めたこと。それ以外は何も思い通りにならなかったですからね(笑)」

第一線で活躍したトップアスリートの多くは、コーチや解説者などこれまでいた世界に関わる場所で第二の人生を歩むことも多い。しかし里谷さんはモーグルの世界からいったん離れ、これまでの輝かしい実績が通用しない世界に踏み出した。ゆえに、金メダリストらしからぬ苦労を今、味わっている。

「モーグルに関わるっていう選択肢もあったのかと思うんですけど、会社で働くっていう経験はフジテレビの社員である今しかできないと思ったんです。一度会社を辞めてしまったら二度ともう会社で働くってことはできないだろうなって。コーチをやったあとに“やっぱり会社で働きたいです”って言っても、現実的にはなかなか難しいですよね。どこまでやっていけるかわからないけど、まずは挑戦してみたいというか、新しいことを一回やってみたいっていう気持ちがすごくあって」

この生き方こそ里谷多英らしさなのかもしれない。その彼女の原点を探るため、ここで少しスキー人生を振り返ってもらうことにする。

「悔しさがバネになることを知った」

「子どもの頃からとにかくスキーが大好きで、お年玉は全額スキー用具に費やしてしまっていて。でも、新学期が始まって友達たちが学校でお年玉自慢をしていても私はすでにスッカラカン(笑)。それが悲しくて父親に話したら、“オリンピック選手になれば用具を提供してもらえるよ”と聞いて、じゃあオリンピックに出たいっていう子どもっぽい理由でオリンピックを意識しました(笑)」

里谷さんが滑っていた家の近くのスキー場がコブの多いコース。そこを滑るのが大好きだったことから、父親がモーグルという新しい競技を見つけて里谷さんに大会出場を促した。小学校6年生で出場した全日本選手権でいきなり優勝。その後、中学生になった頃にモーグルがオリンピックの正式種目になることが決まり、“オリンピック選手”が一気に現実味を帯びてきた。

「まだ競技人口がとても少なかったし、6年生の優勝からほとんどずっと全日本で優勝したので、もし日本人の女子がモーグルでオリンピックに出るとしたら自分だとは思ってはいました。だからリレハンメルは当然行けるだろうという感覚でした」

その予感どおり、17歳でリレハンメルオリンピックに出場。結果は11位だった。高校生でのオリンピック出場はプレッシャーも大きかったのではと問うと――。

「全然なかったですね、プレッシャーなんて。もうただただ楽しかった大会です。メダルが欲しいとか口では言ってたかもしれないけど、当時は言うほど本気じゃなかったんです。だから予選を通って11位になったことである程度、満足できたというか。でも、自分の試合が終わった後、男子ジャンプの原田雅彦さんたちがメダルを取るのを目の前で見て“スゴイ!”と感動してしまって。メダリストのみなさんと一緒に写真を撮ってもらったり、メダルに触らせてもらったり、サインをもらったり、そういう経験をさせてもらったことが本当にいい刺激で。その経験が長野で“メダル取りたい”って本気で思わせてくれたというか。あれがなかったらなかったと思います、長野のメダルは」

その経験を糧に自国開催の長野大会を目指す里谷さんに大きな変化があったのは、リレハンメルの翌年のこと。

「(上村)愛子の存在です。それまでは私一人ダントツっていうのもおかしいですけど、実際、当たり前に一番でオリンピックに出られていたんですが、リレハンメルの翌年に愛子が急に出てきていきなり表彰台に乗ったんです。それが悔しくて悔しくて。そういう刺激になるような人が出てきて、初めて“頑張らないと抜かれちゃうかも”という危機感を持ちました。それまではただ好きで滑っていただけで、競技人口も少ないから競争もあまりないし、ただただ楽しいなっていう気持ちでやってたので、愛子に刺激をもらって初めて火がついた」

その後の3年間はそれまでとはまったく違うモチベーションで競技に取り組むようになった里谷さん。さらに、コーチにも恵まれたこと、そして何より、一番、里谷さんを応援してくれる父親の協力も大きかった。

迎えた長野大会。地元の高校生とあってマスコミの注目度が高かったのは上村愛子さんだったが、メダルを手にしたのは里谷さん。その色がゴールドだった。

「予選で11位だったのでメダルはちょっと厳しいかなって正直思ってたんです。モーグルって11位とか12位から金メダル取る人ってあんまりいないんですよ。もう無理かなって諦めかけたとき、コーチに“絶対無理じゃない”って言われて、じゃあやってみようって。でも実は試合のこと、まったく覚えてないんです。滑る前の10分間くらいの記憶が完全に抜け落ちている。ゴーグルのレンズをかえたりしたらしいんですけど、そんなことはもちろん滑ったこともゴールしたことも記憶がない。滑り終わったところからは記憶があるんですけど、チームメイトが喜んでいたから“あ、よかったんだ、じゃあ一応ガッツポーズはしとこう”という感じ。初めは点数も理解できなかったんですよね、自分でも見たことのない点数だったから。点数じゃなくてタイムだと思っていたくらい。でもその隣にちゃんとタイムがあって、あれ、じゃあこっちは点数? あれ? って。その数字が私の点数だとわかって初めて、とんでもないいい点が出たんだってわかりました」
 
神がかり的な体験で手にした金メダル。アスリートならば誰もが最大とする目標を達成した里谷さんは、長野を最後にあっさりと引退を決めた。

「もともと長野で辞めようと思ってたんです、父親がすごく厳しくて。応援してくれていたから長野までは絶対に頑張ろうと思っていたけど、まだ20歳ちょっとだったし、普通に大学に通って、ちょっと遊んでというような普通の生活に憧れたこともあって。といっても厳しかった父親は長野の前に亡くなってしまったんですが、長野は父親との約束だから絶対に出て、それを区切りにしようと勝手に決めてたんです。だから実際、長野のあと“スキー辞めます”って宣言して何十回も引退パーティーしてもらっています(笑)。なんですが、その年にフジテレビに入って働いてみたら、会社員って意外と大変だなって(笑)。そのときは若かったし、普通の会社員は無理かもしれないとすぐ判断して、“やっぱりスキー続けます!”って撤回(笑)。そうして競技に復帰したら、けっこう波乱なスキー人生になってしまったんですね、それまではずっと順調だったのに(笑)」

「いつも逆境が自分を成長させてくれる」

 現役復帰を決めたあと、競技のルール変更やコーチとの不協和音などめまぐるしい環境変化があったうえ、自身の足首骨折など不運も重なり、これまで経験したことのない逆境に立たされる。しかしここからが、彼女らしさが十二分に発揮される第二のスキー人生の始まりだった。

「本当にいろんなイヤなことがあったんですが、いつの間にかそれ自体が楽しくなってきちゃったんですよ(笑)。それまでは義務感というか、どこか淡々とした気持ちでスキーをやってたんですけど、だんだん環境が難しくなっていくにつれて“だったらやってやる”って気持ちが生まれてきて。負けず嫌いなんですね、きっと。もちろん逆境に立たされるたびにムカついたり、反抗したり、いろんなことがあったんですけど、愛子のときじゃないですけど、刺激とか逆境とかがいい起爆剤になって。練習も以前よりも真剣に頑張るようになって、そうするとちゃんといい成績が出たり、成長する実感がつかめて、それがまたすごく楽しくなってきちゃって。気持ちがマイナスなることはしょっちゅうありましたけど、でも、気持ちは逆境に立ち向かう気持ちに溢れていたので、長野のあとはまったく辞めようとは思わなかったですね」 

次のソルトレイク大会は順調に代表入りし、出場した本大会では銅メダル。金メダルにこそ届かなかったが、冬季オリンピック2大会連続のメダルはそれ以前も以降も日本女子ではただひとり。それほどの偉業を本番でさらりとやってのけてしまうのが、里谷さんの醍醐味だ。

「ソルトレイクのあとは結婚や離婚があったり、その前の4年間とはまた違って大変なことがいっぱいあった。年齢や怪我や成績のこともあってナショナルチームでの風当たりも強くなってきて。トリノオリンピックのときは個人参戦したこともあってスキー連盟からの心象も悪くなっていて、その頃から引退勧告みたいなものを受けてたんです。でも私、絶対に成績が出せる間は辞めるつもりはなかったんです。引退勧告を出されたことで逆に納得するまでやり切ろうって思えたし。その代わり、成績を残せない、基準をクリアできなくなったら辞める覚悟もきちんとありました。でも結局、ずっとクリアできたから辞めなかった。現役を続けた一番の理由はそれなんです」

明確な動機で続けてきた選手生活。まさにその言葉どおり、2012-2013年シーズンでワールドカップに復帰する可能性が絶たれたことを機に引退を表明した。

「引退を決めたとき、すごくスッキリした気持ちでした。ずっと覚悟を持ちながらやってましたので、その基準をクリアできなかったら自分のなかではちゃんと納得いくカタチで辞められると思っていましたから。人から言われて辞めるのは納得いかないけど、明確な基準があって、それに達していないなら自分が悪いので仕方ない。ちょっと悲しいなって思うのは、試合で海外に行けなくなっちゃういことかな。でも未練はないし、やり切ったって気持ちは変わらない。だから今は本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ちゃんとオリンピックを目指させる環境を用意してもらって、ダメだったから辞めるって言えたのは、とても幸せな選手生活だったと思います」

インタビュー開始当初、新しい生活の話をするときの彼女とは違って、迷いなくきっぱりと言い切る里谷さん。その言葉に偽りはなく、心底、やり切ったあとの満足感と達成感に満ち溢れた晴れやかな顔を見せる。金メダルという最高の結果を手にしたあと、選手生活をどう終わらせるか、アスリートにとってはひとつの大きな課題となる。実際、里谷さんも紆余曲折があったと思う。でも最後、この引退した瞬間、涙でなく清々しい笑顔で終われたという事実が彼女の強さであり、彼女の考えるアスリート人生の答えなのだろう。引退した今、改めて選手生活で一番の滑りを聞いてみた。

「オリンピックの2つのメダルはもちろん大切なんですけど、滑りとしては2008年の全日本選手権が一番ですね。その前に怪我で1年間休みをもらっていて、その全日本選手権で2番以内に入らないとナショナルチームには残さないと言われていた崖っぷちの大会。もちろん辞めるわけにはいかないので(笑)、もうがむしゃらに練習したらすごい会心の滑りができて。タイムが男子でも表彰台に上がれるくらいのスピードが出て、何の恐怖心もなくそのままのスピードでバックフリップしても全然怖くなかった。会心の滑りで優勝できて、それはそれは気持ちいい試合でした。私、やっぱり早く滑るのが好きなんですよ。気持ちいいなあって」

やはりスピードの里谷多英。どこまでも彼女らしいコメントだ。

「いずれはまた、スキーに関わっていきたい」

現在、慣れない会社員生活に四苦八苦しながらも、新しい生活を楽しもうと前向きに頑張っている里谷さんは今、改めてスキーをしていた時間の価値を感じているという。

「スキーを続けていたときは忙しいといってもなんだかんだ時間もあって、自分をキレイに保つ余裕があるんですよ。でも、仕事をしている今の方がゆとりを持ちにくかったり、忙しいと感じることが多くて、このままどんどん老けていくのかって心配になりますよ(笑)。あと、ずっと身体を動かしてきたのに今は一日デスクに座っていたり、ただ立っているだけのこともあって、身体がたるんでくるのが許せない(笑)。やっぱり身体を動かさないと内面的にもすさんでくるんですよね。考えると怖くなってきちゃって、今ヨガに行ってみたり、バレエをやってみたり、いろんなことに挑戦しようと思っています。まだ余裕がなくてペースがつかめていないんですけど、絶対ちゃんとしていかなきゃって思っています。身体を動かすと心も健康でいられますからね」

今年、37歳になった里谷さんにプライベートの夢や目標を聞いてみた。

「仕事以外ですか、うーん、やっぱり結婚して子どもが欲しいですよね。一回目はうまくいかなかったけど、その失敗を糧にもう1回チャレンジしたいですね。まあ一回失敗すると次に踏みきるのが難しかったりするんですけど(笑)。でも子どものことを考えたら年齢的にそろそろ本気で考えないと。競技をしていると出産のタイミングって難しいんですよね、女性って。本当に計画的に産まないとまわりに迷惑をかけるし、計画的に産んでも理解されない部分もある。私はただ純粋に競技を続けたくて36歳になってしまったんですけど、終わってみて、こんなすぐに36になっちゃうんだってビックリですよ。私は現役時代、結婚していても子どものことを考える余裕がなかったんですね。それが離婚の原因にもなったりするんですが、だから現役時代に出産するアスリートって本当に尊敬するんですよ。柔道の谷亮子ちゃんとか、スピードスケートの岡崎朋美さん、本当にすごいですよね。そして、仕事をしながら子どもを産んで育てている人も同じようにすごいと思う。同性から見てもすごいなあ、強いなあって。今改めて思うと、スキーの現役時代のほうが未来を想像できて楽だったかも(笑)。だって4年後のオリンピックを目指しているならやることも明確ですから。でも今って、全然4年後が想像できないですよ。1年後も、2年度も、何もわからない。本当に未知過ぎて怖いですよ(笑)」
 
冬季オリンピック日本女子初の金メダルを取り、冬季五輪で2つ以上のメダルを獲った唯一の女子選手である里谷さん。しかしそこにあるのは、そんな偉業を成し遂げたことを一瞬忘れてしまうくらい、37歳のリアルな気持ちを持つ女性の姿だった。しかしながら、迷いも悩みも戸惑いもあるといいながらとても前向きにこう話してくれた。

「私、人生を点では見てないんですよ。よくプラスマイナスゼロっていいますよね。ときどき私の人生、どこがプラスでどこがマイナスだったかなって考えることがあるんです。オリンピックの金メダルはすごいプラスで、怪我とか離婚はすごいマイナスで、今のところプラマイゼロかな、とか(笑)。そんなくだらないことを考えているうちにワケがわからなくなってきて、“それは死ぬ前に考えよう”と考えるのをやめたり(笑)。だから今は、プラスを多くできるように頑張らなくちゃって感じですね」

この言葉を聞いて、彼女ならきっと自分の力でどんな道も切り開き、前に向かってチャレンジしてくのだろうと思った。でもそれは決して無理をすることではなく、大好きなスキーをやってきた感覚や、負けず嫌いな自分を納得させる方法で。「いずれまた、モーグルに関わりたい」という夢も、彼女なら自分の手で引き寄せられるだろう。

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